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タイトル
イスラム教による死後の世界
投稿日
2010年3月22日
概要
3つの世界(現世、バルザク、来世)、などについて
内容
簡単に言えば、死後の世界とは必ずしもまったく新しい状態のものではありません。
実際は、この世での私たちの精神状態が全てはっきりと表わされ、映し出された世界なのです。
この世では人間の行動や考えの良い面も悪い面も、すべて心の中に潜んでいるため、その価値も害もしばしば直接には見ることができません。しかし、あの世では全ての事が完全に明白になっているのです。それは人間が心に強く思っていることは、どんなことでも夢に現れることからある程度想像できますが、完全ではありません。
この世で、目で確かめることができない精神的な様々な状態というものは、あの世では、はっきりと見えるのです。それは、私たちの想像することが夢の中に現れ、見ることができるのとよく似ています。私たちが地上での期間を終了すると、私たちの行動とその結果が目で見える世界へ移されます。
この世では隠され、目には見えなかったことが、来世では明らかになり、目ではっきりと見えるようになります。このように、精神的なものが目に見えるようになるというのは、絶対的な真理なのです。夢で見たことはすぐに消えてしまいますが、夢を見ている間は私たちの目には、現実として映ります。
三つの世界
聖クルアーンには、この三種類の世界、すなわち人間は三つの異なる状態の世界に存すると記されていることを知っておいてください。
第一の世界は現世であり、実際に行動がなされる世界とか、最初の創造の世界などとよばれます。現世で人間は、自分の行動の善悪に対する報いの資格を得ます。復活後、善人はより進歩しますが、その進歩の様々な程度は人間自身の努力によるものではなく、神の慈悲によってのみ考えられるのです。
第二の世界はバルザクと呼ばれるもので、バルザクとは中間の状態を意味します。つまり、第二の世界は現世と復活後の世界の中間に位置するため、バルザクと呼ばれます。バルザクの状態では、魂は肉体から離脱し、死体は消滅してしまいます。死体は埋葬され、魂もまた埋葬されるといえます。というのは、魂は肉体を支配する力を失うととともに、善悪の行動の力をも失ってしまうからです。健全なる魂は健全なる肉体に宿ることは明らかなことです。
魂は肉体から切り離されれば何の目的も果たすことができなくなることは、疑いようのない真実であり、それは数々の経験が実証しています。人間の魂はいかなる時も、肉体とは別にそれ自体が喜びを得る、と主張するのはくだらないことです。
それは物語としては興味深く、楽しいことかもしれませんが、何の根拠も、それを実証する経験もありません。私達は肉体の機能が少しでも狂えば、魂の機能もその影響を免れることができないことは何度も経験済みなので、肉体と全く切り離されて、魂のみが完全な機能を果たせるとは想像できません。
死後、泥で造られ、やがては消滅してしまうこの肉体から、魂は離脱しますが、バルザクでの全ての魂は、現世での行動の善悪の報いや罰を受けるために、新しい肉体を一時的に与えられます。この肉体は泥でできた、滅びてしまうものではなく、現世での行動によって異なり、明るいものや暗いものがあります。
バルザクでの肉体について聖クルアーンは、魂は人間の現世での行動の善悪にもとづいて、明暗いずれかの新しい肉体が与えられると述べています。これを神秘と思う人もいるかもしれませんが、少なくとも納得がいかないことでもない、ということくらいは認めるべきでしょう。
より完全な人間は、現世の時点でも、もうすでにそのような明るい肉体が準備されるつつあることがわかるのです。一般の人々はそんなことはミステリーで、理解することができないと思うかもしれませんが、鋭敏なすぐれた洞察力を持っている人達にとっては、この世での行動の善悪によって、明暗いずれかの肉体が与えられることの真実性を悟るのは難しくありません。つまり、バルザクでの新しい肉体は、善悪に報いるための手段になるのです。
このことは私は自分で体験しました。まったく意識がはっきりしているときに、死者をはっきりと見たことが何度もあります。大勢の悪人や罪深い者たちの体は、暗くて煙がかかったように見えました。私はこれに関して知識があります。そして私は神がおっしゃったように、すべての人間は透明に近いような明るい肉体か、または暗い肉体のどちらかを与えられると強く主張します。必ずしも理論だけで理解しようとしてもできないこともあるのです。
第三の世界とは、復活後の世界です。この来世では全ての魂は、善悪、美醜にかかわらず、目に見える肉体を与えられます。この復活の日とは、神の栄光が完全に示される時であり、その時全ての人間は、神の存在を知るのです。その日すべての人間の現世における行動の報いは、完全にはっきりとしたものになります。このようなことがどのように起こるのか不思議に思う必要はありません。全能の神にできないことは何もないのです。
罪と報酬は、死後直ちに与えられます。そして地獄へ落ちる者は地獄へ、天国に導かれるものは天国へと、それぞれにふさわしい場所が与えられます。しかし、復活の日は、神の超自然の知恵がついにもたらす、最も輝かしい栄光が示される日であります。神を創造主として認識させるために、神は人間を創造しました。神は破壊者として人間にみなされるように、地球上のあらゆる生き物を破壊し、また、神を全知全能とみなすように、最後には全人類を神のもとへ集め、永遠の生命を与えてくださいます。
三つの重要点
聖クルアーンには、来世について三つの重要事項が述べられています。
その一つは、死後の世界は新しいものではなく、現世のイメージであり、そのもっともはっきりしたものでしかないということが繰り返し述べられています。それゆえ聖クルアーンにはこう書かれています。
『神様は私達にこの世での自分の行動の結果のひとつひとつを首に結びつけておいて、これらの目に見えぬ結果は復活の日にはっきりとした記録の一冊となりひとりひとりがこれを開いてみる。』(聖クルアーン 17:14)
この句の中で「タイル」という言葉が使用されていることは、特に注目すべきことです。「タイル」とは文字通り「鳥」を意味し、ここでは人間の行動を抽象的に言い表しているのです。なぜならば、すべての行動は善悪にかかわらず、鳥のように消え去ってしまうものだからです。人間が行動とともに感じる無常の幸福とか苦痛はすぐに消え去るものですが、行動のひとつひとつは人間の心の中に善悪の印象として残されます。人間の行動はすべて、実際は心だけでなく手、足、耳、目等にもその善悪が印され、神によってその結果が判断されます。全行動や人間の目には見えない行動すらも記録されている本がこの世で準備され、来世ではそれははっきりとしたものになります。
聖クルアーンの中で、来世に関する第二の重要点は、現世での精神的な事柄はバルザクや復活後の世界では、目に見えるものとして示されるということです。この点について、いくつかの句は次のように述べています。
『この世で盲目の者は、来世においても盲目であろう』(聖クルアーン17:73)
言いかえれば、来世では現世での精神的盲目であるということがより明らかにされ、そこでは実際に盲目になります。
また別の句には、こうあります。
『その日、ある者の顔は明るく輝き、またある者の顔は暗くなるだろう』(聖クルアーン3:107)
すべての人間の精神状態が、その日には誰にでも、庭や川のある天国で見えるようになり、神は高潔な人々の前に、輝かしい栄光の中でその姿を現わされるでしょう。つまり精神状態は、もはや目に見えないものではなく、はっきりと示されたものになります。
死後の世界に関する第三の重要点は、来世での人間の進歩は限りないということです。神は次のようにおっしゃっています。
『この世で信仰の光を持つ人々は審判の日に自分たちの光が、前方、右方にひらめき、こう祈り続けるでしょう。「神様、私達のために光を完全にしてください。私達をお許しください。まことにあなたはすべてのことに全能です。」と』(聖クルアーン66:9)
光を完全にして欲しいという限りない願いは、天国での進歩が限りないことを暗示しています。つまり、高潔な人々は少しも後退することなく進歩を続け、天国での恵みは決してなくなることはありません。
端的に言えば、天国と地獄は、聖クルアーンによるとこの世での人間自身、精神生活のイメージとそれがはっきりしたものにすぎないということです。それはまったく外部からもたらされた新しい物質的世界ではありませんが、目に見えない手で確かめることができるものであることは事実です。それを物質的世界と呼びたければ、そう呼んでもかまいませんが、あくまでもこの世の精神的事柄が目に見えるようになった状態にすぎないのです。
私達はそれを物質と呼びますが、地獄の焼けただれた石塊や硫黄も、極楽にある木も、言葉の上では同じですが、この世で見られる木と同じではありません。この世での精神的事柄が、具体的に私達が目で確かめることができるようになるという意味で、物質的世界と呼ぶことができるのです。天国と地獄は、イスラム教の教えによると、私達がこの世でする行動の投影に他ならないのです。
著者:アタウル・ムジーブ・ラシェド(現イギリス、ロンドンモスク最高責任者)
発行日:昭和56年(1981年)2月20日
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